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【連載コラム】

山岡大基の教育論〈英語教育論編〉5

2012.06.05

この記事は「山岡大基の教育論〈英語教育論編〉4」の続きです。

【最後に】
以上の点から、私は次のことを提案します。
i)英語教師の授業づくりには、いくつかの「発達段階」を想定することができるのではないか
ii)その「発達段階」は、その教師が、授業におけるwhat to teachをどのように捉えているかによって特徴づけられるのではないか

英語教師の授業づくりに限らず、人間の技能習得や職業的発達は、大なり小なり連続的な過程であるものですが、便宜的にでも段階性を考えたほうが、主に教員養成・現職教員研修において、いくつか都合の良いことが出てくるのではないでしょうか。

他人の授業を見て、そこから学ぶとき、自分がwhatに関してどのような考えを持っているのかを自覚していないと、表面上わかりやすいhowを、体裁だけ真似することに終始し、それが自分なりのwhatにそぐわなければ効果が薄く終わってしまうことになりかねません。
というより、そうなることが多いです。
ですから、そういう意味で、自分の授業づくりが、whatに関してはどの発達段階にあるのだろうか、という意識を持っておくことは決定的に重要なのです。

そして、教員養成や現職研修の場で指導する立場の人にも、発達段階に関する配慮が求められると思います。
多くの場合、指導助言者などの立場になる人は、授業者よりも高い授業力を持っているとされる人であるでしょう。

そうした場合、指導する側が、例えば(7)の段階にまで授業力が高まっているとして、(3)の段階にいる授業者に対して、安易に(7)のレベルのことを要求しても、そのことを理解してもらえないばかりか、悪くすると、表面上のhowにだけ授業者の注意が向けられて、whatとhowの不一致が生じる危険性もあります。

いくら優れた英語教師が高次元の授業をしているからといって、それをもって他の英語教師を啓蒙していこうというのは、安易にやってしまうと、結局、「あの人だからできるんだ、あの学校だからできるんだ」という自我防衛反応を引き出して終わる可能性が高いと思います。

生徒の英語力が一定の段階を踏みながら伸びていくのと全く同様に、英語教師の授業力も一定の段階を踏みながら伸びていくものではないでしょうか。
そう考えると、充分なケアをしないままトップクラスの英語教師の授業をモデルとして研修することや、howだけが焦点化されがちな形でワークショップや実践発表をすることは、避けたほうが良いと思うのです。

※「地道にマジメに英語教育」から一部修正のうえ転載

山岡大基(やまおかたいき)さん
中学・高校の英語教員
2001年度〜2004年度 近畿地方の高校
2005年度〜中国地方の中高一貫校に勤務

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